そこで智旭は「天学初徴」と「天学再徴」の先後二章をして、儒教者の立場から天主教師の見解を駁斥し、この両章をあわせて、『闢邪集』と名づけたという。
彼は「天学初徴」には、二十二難を設け、「天学再徴」には、二十五難を設けて、主として天主教の天主説と儒教の本体論、倫理観を対比して、天主説の自己矛盾を抽出している。なお、儒教と天主教の根本差別点な指摘しているところで、「天学初徴」の第六難には、次の通りに述べている。
孔子日、天何言哉。孟子曰、天不言、以行與事、示之而巳矣。今言古時天主降下十戒、則與漢宋之封禪天書何異。惑世誣民、莫此爲甚。(駒沢大学蔵本『闢邪集』三頁)
実は天主教の儒教思想の取り扱いは、むしろ『書経』に述べる素朴な天の観念である。智旭のいうところによれば、孔子と孟子の哲学思想における無言または不言の天の理念は、天主教側に無視されるのである。ことに、智旭の好む『易経』から衍生した「太極無極」説の宇宙本体は、天主教にとってこれを採択するのは、大変無理なことである。よって天主教では儒教との調和論をよく強調したにもかかわらず、僅かに儒教『書経』の中のあいまいな「天」説を援用するにすぎず、孔・孟の本体論に対しては沈黙している。
さらに清初の天主教の作品『天儒同異考』を見れば、その三編の目次は、①天主教合儒、②天主教補儒、③天主教超儒である。つまり、天主教は儒教の基本点に背かず、なお儒教そのものと異なっており、しかも超越しているというのである。しかし、この点は智旭が観察するに、天主教と儒教思想とをいかに牽強附会してみても、両者は融合し得ないと断定したのである。
この『闢邪集』の論法とその論鋒は、非常に厳密でしかも鋭利であり、たとえ現代人の要求に応じて評価しても、