十分それに応えうると思われる。当時の天主教側には、この『闢邪集』の刊印はよく知られていたはずであるが、反駁の記録は見当たらない。いまは、その「天学初徴」の第一問難を抄録して見よう。

且問、彼大主宰、有形質耶、無形質耶。若有形質、復徒何生、且未有天地時、住止何處。若無形質、則吾儒所謂太極也、太極本無極、云何有愛惡、云何要人奉事、聴候使令、云何能為福罰。(同上の一ー二頁)

この問難は、いわば儒教で孔・孟の思う天は、自然神であり、人格神の性質を含んでいない、しかも宇宙の原則あるいは宇宙の本体であるが、キリスト教の旧約ないし新約の神とは、実に人格神である。しかし、西紀二世紀から五世紀までの間に、ギリシヤの哲学によってキリスト教の神を解釈してから、自然神の宇宙本体論および人格神の救世贖罪説の論争が起こって、遂に宗教としての人格神と、哲学としての自然神と両立しているわけで、その自己矛盾の点は非常に明白である。しかるにキリスト教の神学家は、この矛盾をそのままに差し置いているというのであった。

智旭が明末頃に、すでにこの基督教神学の弱点を見出して看破しているのは、注目に値するであろう。また智旭は、天主という神の贖罪説とその全能説の矛盾を看破し、天主の創造人間説とその賞善罰悪説の不両立を論難した。もし天主教の神が全能であるなら、イエスの贖罪は不用なことであり、もし人間を創造した神が、彼自身、人間に代って十字架で死刑にされ、人間の罪を贖うことが必要なら、その全能である理由ほどうしても成り立たないであろう。もし天主教の神が本当に全能であるとすれば、天主教の思うままに善神と善人だけを創造したらよいであろう、なぜ世の中にこんなにも数えきれない悪魔と悪人が現われたのであろうか。まさかこれは天主教の神の愛の表現ではあるまいと、智旭は論難した(3)。