明末中國佛教の研究 6

尋訪するすべてのところにおいて私利を奪ったのである。こうした状態の社会では、その民衆の寧静と民風の淳朴とを欲することは、実に不可能といわなければならない。

明末における政治の腐敗は、武人の愛国心をも失わしめた。流寇の蜂起がそれであろう。世宗は侫臣の魏忠賢を信任して、英才賢俊の文官武将を排斥したため、その隙間に乗じて、遂に清兵が山海関に歩を進めるに至った。明の守将も相い継いで降服し、孔有徳・耿仲明をはじめ、十三万の兵を率いた薊遼総督の洪承疇も、寧遼の五十万の兵を率いた呉三桂も共に清兵に投降し、かつ清兵とともに明王朝を倒すに至ったのである。

この頃、陝西省等の地方に、大饑饉が起こり、餓えた人々は子供をさえも食物とするありさまであったという。これについて『明史』第百八十巻「汪奎伝」では、

陝西・山西・河南、頻年水旱、死徒大半。山陝之民、僅存無幾…(中略)…。山陝河洛饑民、多流隕襄、至骨肉相噉。(開明書店鋳版七五〇七頁C)

と述べ、また『明史』同巻の「李俊伝」にも、

陝西・河南・山西、赤地千里、屍骸枕籍、流亡日多、萑苻可慮。(同右)

と述べており、当時の陝西・山西・河南など三省地方に、水災または旱魃が相次いで起こり、大多数の人々が餓死したことが知られる。その上、生残った饑民は、叛卒・逃兵・冗卒と共に嘯聚して、各地に流寇集団となって出没した。これらの集団は自から闖王と号した高祥迎をはじめ、李自成および張献忠等に率いられて叛乱を起こしたのであり、安塞の馬賊出身の高祥迎が、毅宗の崇禎二(一六二九)年より九(一六三六)年までの七年間に寇擾した地域は、陝西・河南・湖北・安徽の四省に及んでいる。李自成は崇禎四(一六三一)年に孔有徳と共に兵を起こした。