異端排斥の色彩を薄くしたため、三教同源の環境をはぐくむことになった。そして明の仏教は、おおよそ明初と明末の二段階に分割できる。すなわち、明の太祖洪武帝(一三六八ー一三九八)から成祖永楽帝(一四〇三ー一四二四)の終りまでの六十年の間、政府統制のもとに仏教に関する事件は、非常に多かったが、この期間における思想の転換はまだ見えていない。ついで、宣宗宣徳帝(一四二五ー一四三四)から穆宗隆慶帝(一五六七ー一五七二)にわたる百余年の間は、中明ともいうべきであるが、この期間は、明代仏教の暗黒時代といわなければならない(1)。禅僧と、葬式にのみかかわる瑜伽教僧ばかりが中心の、仏教史としては極めて衰微の段階を示すものであった。

明代仏教の特徴といえば、明末の四大師(2)の出現であるが、それは神宗万暦帝(一五七三ー一六一九)から永明王永暦帝(一六四七ー一六六一)にかけてのわずか百年ほどの間の出来事といえるであろう。この時代の四大師は、従来の宗派と法派の伝承を打破して、諸宗大融会の局面を打開していった。

明代の印刷術の進歩に伴って、儒道仏三教の出版物の数量は前代よりかなり多い。君主政府の財力に支持されてできた主なものは、二万二千九百巻の『永楽大典』をはじめ、道教の『道蔵』五百十二函が出版された。仏教では二種の大蔵経が出版された。まず、太祖が洪武五年(一三七二)に、四方の名徳沙門に命じて、南京の蒋山寺に、蔵経を点校して、官版蔵経六百三十六函六千三百三十一巻を出し、ついで、成祖の永楽帝が、太祖と馬后の追福のため、大蔵経の雕造を発願し、英宗の正統五年(一四四〇)に刻成、六百三十六函六千三百六十一巻を出した。このうち前者を『南蔵版』といい、後者を『北蔵版』という。

『明史』巻第九十八「藝文志」の三によると、道教類の出版物は五十六部二百六十七巻、釈教類の出版物は一百十五部六百四十五巻であるという。数量を比べると、仏教が優勢であるが、明初帝王の文化政策においては、