『周易』・『四書』・『性理』の三大全書を儒教の重心とし、『道徳経』を道教の重心となし、『心経』・『金剛経』・『楞伽経』を仏教の重心とした。それ故、太祖は、仏教に対しては、自ら『集註金剛経』一巻を製した。また洪武十年(一三七七)には、天下の沙門に詔して、『心経』・『金剛経』・『楞伽経』の三種を講ぜしめ、同時に宗CB05271・如圯・弘道等の沙門に命じて、これを箋註頒行せしめたが、以後明末に至るまでこれら三経の註釈書が、次々に出現してきたことは事実である。卍続蔵経に収められている『般若心経』の註釈書の四十六種のうち、明代にできたものは二十六種を占めており、また『金剛経』の註書四十二種のうち、明代にできたものは十四種を占めている。そして『楞伽経』の註書の十一種のうち、明代にできたものは八種を占めている。

1 陳垣著『釈氏疑年録』巻十の三七〇頁に、「蓋明自宣徳以後、隆慶以前、百余餘間、仏教式微已極、萬暦以来、宗風稍振。」と論じている。

2 明末の四大師とは、雲棲祩宏(一五三五ー一六一五)、紫柏真可(一五四三ー一六〇三)、憨山徳清(一五四六ー一六二三)、蕅益智旭(一五九九ー一六五五)の四人である。

二 明太祖の仏教政策

仏教統制と僧侶の分類


『釈氏稽古略続集』巻二によって判明する明初の仏教態勢については、