もとより『楞伽経』の「宗通」と「説通」という説によってできたものであると思うが、瑜伽僧を「教」としたのは、唐宋時代にはなかったことである。しかし、元代に至り一時的に隆盛を見た蒙古と西蔵の喇嘛教が、内地に流行したために、漢民族の伝統仏教も、民間信仰の要求に応じて、ある程度瑜伽密教の影響を受けて変化したことは事実である。この瑜伽教の内容は、蒙古と西蔵の密教そのものではないし、また唐代の開元三大士から伝えた密教でもない。むしろ隋唐より宋代に至る間に、天台学者を中心とする高僧たちが、律儀を根拠として、種々の懺法・経咒の誦持儀軌・水陸道場の法要・燄ロ施食の法要などを編成したのである。そこで、これに基づき、また一方では、元代の喇嘛教の行儀にならって、いわゆる瑜伽教という型態があらわれたのである。現実には純粋な密教・純粋の顕教のいずれにも属していない、顕密混融(2)の流俗信仰の民間仏教である。
ところで、仏教の僧風を破壊する点に関して、真面目な禅僧と講僧は、その厳重な生活規律によって問題はなかったが、流俗の瑜伽僧の腐敗は最も問題となった。ために洪武二十四年(一三九一)の「申明仏教榜冊」の中に、次のような命令が出ている。
今天下之僧、多與俗混淆、尤不如俗者甚多。是等其教而敗其行。理當清其事而成其宗。令一出、禪着禪、講者講、瑜伽者瑜伽、各承宗派、集衆為寺。有妻室・願還俗者・聴、願棄離者・聴。(『釈氏稽古略続集』巻二\卍続一三三巻一二八頁A)
これによって知られるのは、禅・講・教の三類の僧侶はともに腐敗の現象を起こしているが、恐らく禅寺と講寺の僧侶が、瑜伽僧の仕事もしたのではないかと思われる。なぜならその次の条文に、瑜伽僧の「顕密の教」に関する規制が、比較的に多く(3)、妻帯をしたのも、また瑜伽顕密の教の僧侶であると推測できるからである。