明末中國佛教の研究 7

さらに崇禎八年には張献忠とも手を結んだのであるが、一六四五年に自殺するまでの十数年の間に、安徽・四川・陝西・河南・湖北・湖南・広西を攻略し北京を包囲した。こうした背景のもとに崇禎帝は(一六四四)自殺したが、清兵は投降した呉三桂の案内によって山海関に入り、李自成を打ち破った。ここに新しい清王朝が出来あがることになったのである。

ところが智旭の生滅年代を検討すると、それはちょうど明末の万暦二十七(一五九九)年から永明王の永暦九(一六五五)年に当っている。明王朝は実に毅宗崇禎帝の梅山自殺によって、すでにその正統は果てたのに、南方の明王朝の後裔である諸王が、相い次いで紛然として独立を争った。かくして、およそ十五年ほどの間に南京の福王(一六四四ー一六四五)・福川の唐王(一六四五ー一六四六)・肇慶(広東省)の桂王すなわち永明王(一六四六ー一六六二)が、それぞれに政権を独立させたが、南京の福王と福州の唐王は、共にわずか二年たらずの短命政府であった。広東に拠った永明王は、永暦十三(一六五九)年にビルマへ亡命したので、その政権の事実上の滅亡年はここにおくべきであろう。これはちょうど智旭の歿年である一六五五年と、ただ四年の相違である。それ故、智旭の生涯は、明末の朱氏王統と時期を同じくしたと言えるであろう。

二 智旭のみた明末の社会不安


智旭が当時の政治社会と、どのような関係をもつかという問題を、彼の著作から調べるには、資料が余りにも不充分である。智旭の法語と書簡に六十余人の俗人の姓名を掲げているが、彼等の官職尊号は一切省略されているので、それを個別に考検することは容易なことではない。これについて、彼の論集『霊峰宗論』の編集者である成時は、