相傳佛滅後、性相二宗學者、各執所見、至分河飲水、其爭如是。孰是而孰非歟。曰、但執之則皆非、不執則皆是。性者何、相之性也、相者何、性之相也。非判然二也。…(中略)…或謂永嘉云、「入海籌沙徒自困」、又曰、「摘葉尋枝我不能」、似乎是性而非相矣。曰、永嘉無所是非也、性為本而相為末、故云、但得本、不愁末。未嘗言、末為可廢也。是故、偏言性・不可、偏言相・尤不可。(中華民国四十七年台湾印経処印行『竹窗随筆』二〇四ー一〇五頁)
これは釈尊の入滅後に、法性と法相の二宗の学者が、各々自宗の見解に固執した(1)、それはたとえば一つの河の水を二つに分けて飲むのようなものである。それでは一体、法性と法相のどちらが正しいのか。祩宏の見解によると、単なる法性あるいは法相の片一方に執着することは、いずれも是にあらず、性とは相の性であり、相とは性の相とされる。表現の言葉は二つであるが、実際には二つにならないのである。永嘉玄覚(六六五ー七一三)の『証道歌』に、「入海籌沙徒自困」(2)・「摘葉尋枝我不能」(3)、とあるのに拠って、玄覚は法性を取り入れ法相を拒否していると見るものもあるが、祩宏の見解はそうではなく、永嘉玄覚はただ法性を本とし、法相を末としているのであり、もし本を得たら、末もその本のうちに含んでいるはずで、末を廃棄するとはいっていないのであって、玄覚の立場は、法性に偏重することを許さず、法相に偏重することも尚一層許さなかったのであると、祩宏は語っている。
これによって考察すると、祩宏の性相融会説は、やはり賢首教判のもとに考えたものであると思われる。法相唯識を始教の位に置いてから、「性為本而相為末」の理念ができあがった。それと智旭の性相融会説は不同であり、智旭の現前一念心は、卽真卽妄のことである。そして賢首教判が唯識論を始教に当てることに対して、激しい反論をしている(4)。