紫柏真可の性相融会論
紫柏真可(一五四三ー一六〇三)の性相融会の思想については、彼の『紫柏尊者別集』卷一に次の叙述がある。
性宗通・而相宗不通、則性宗所見、猶未圓満。通相宗・而不通性宗、則相宗所見、亦未精徹。性相倶通・而未悟達磨之禪、則如葉公畫龍頭角、望之非不宛然也、故(欲) 其濟亢旱・興雷雨、断不能焉。(卍続一二七巻四六頁BーC)
真可においては、法性と法相の二宗は、平等の位置に見られており、性宗の学者ならば、相宗を習うことが必要であり、相宗の学者の場合にも、性宗を学ばなければならない。この性相の二宗をまとめるならば、それはすなわち『楞伽経』のいう「説通」であり、そしてなお禅宗の悟境を開かなければならない。禅を悟ると、すなわち『楞伽経』のいう「宗通」である。したがって、真可の性相融会説は、性相平等のうえに立ち、そこにはまた宗説倶通という『楞伽経』の思想があらわれている(5)。
この点において、真可の立場は、菩提達磨が『楞伽経』をもって禅宗の初祖になったことと非常に似ているので、智旭は真可を禅宗として私淑の対象とするわけである(6)。
また真可における性相融会の理論的依拠は、真如随縁の思想であり、それは八識四分を解釈したものである(7)。そして、智旭の随縁説をもって唯識性に配釈する観念も(8)、真可と一致している。真如の随縁に従って真如清浄心を八識の証自証分・自証分・見分・相分とするから、もし唯識四分説の理論が解れば、相と性、または性と相の衝突矛盾はありえないはずである。ところで、真可の法相註釈書の『八識規矩頌解』に対して、智旭に次のような反論が見られる。