明末中國佛教の研究 64


達(観真可)大師以能所八法所成、釋性境二字、不過承魯庵之譌、習而不察、白璧微瑕耳。(「寄銭牧斎」\宗論五ノ二巻二一頁)

これによれば真可の『八識規矩頌解』中の「性境」の二字を釈する所は、智旭の賛意を得られなかった。なぜかといえば、真可は魯庵法師普泰の『八識規矩頌補註』(一五一一年作成)の第一頌の解釈に影響されたことがよくわかる。しかるに、智旭はこの能所八法の説を取り入れないで、「性」を実義の相分の種子に取扱い、「境」を八識相分に取扱うからである(9)。また、八識四分の真如随縁の真可説は、理論的な性相融会の接着点な見つけただけである。そして、性相融会の教理を通して、一層深く禅の実修実悟の修証工夫が必要であるとする。この点より見れば、真可は禅中心の性相融会論者と考えられる。智旭は天台の教・観一致論に基づき、教理そのものをもって観心の修行とするのである。このように真可と智旭とには、性相融会読において、ある程度の相異点が認められる。

憨山徳清の性相融会論


憨山徳清(一五四六ー一六二三)の性相融会論については、彼の「西湖浄慈寺宗鏡堂記」の中に、次のような性相融通説の論調がある。

(永明)大師、愍佛日之昏也、乃集賢首・慈恩・天台三宗義學、精於法義者、百餘人、館於兩閣、博閲義海、更相質難。師則以心宗之、衡準平之。…(中略)…雖性・相・教・禪、皆顯一心之妙、但佛開遮心病、末後拈花、自語而自異、卒無以一之。…(中略)…是知大師、厥功大矣。(『憨山大師夢遊全集』巻第二十五\卍続一二七巻二八三頁C)

しかしこれは永明延寿の『宗鏡録』に対する讃揚の言葉であって、別に徳清自身の見解はほとんど示されていないと思う。