ことに禅宗と天台宗の学者は、法嗣伝承のことを非常に重視して論争している。
たとえば、費隠通容(一五九三ー一六六一)の『五燈厳統』の凡例には、当時禅宗宗匠の嗣承法系を厳しく追究して、曹洞宗の寿昌無明慧経(一五四八ー一六一八)と雲門湛然円澄(一五六一ー一六二六)の嗣承を否認し、これに関連して慧経の法嗣である博山無異元来(一五七五ー一六三〇)および鼓山永覚元賢(一五七八ー一六五七)の法統をも否定している(1)。
また性統の『続燈正統』(2)(一六九七年編成)には、慧経と円澄を曹洞宗の正統伝承に取り入れたが、徧融真円(一五〇六ー一五八四)・雲棲祩宏(一五三五ー一六一五)・達観真可(一五四三ー一六〇三)・憨山徳清(一五四六ー一六二三)・聞谷広印(一五六六ー一六三六)・無念深有等の高僧を、「未詳法嗣」の篇に収めており、通問(一六〇四ー一六五五)が編定した『続燈存稿』(3)も、『続燈正統』と同様な取り扱いをしている。
かように、法門正統の伝承問題に関する論争において、明末の四大師は無視するというより、むしろ反対の態度をとった。とくに智旭の場合は、彼の「復銭牧斎」の書簡に、「済・雲闘諍、不啻小児戯」(4)と言って、禅宗の正統法嗣に関する論争は、実に無駄なことであると見ている。さらに彼は「儒釈宗伝竊議」に、禅宗の人物を数える中で、達観真可と無明慧経を挙げているが(5)、当時に雄視の禅宗の代表者、密雲円悟(一五六六ー一六四二)を無視した。さらに智旭の私淑した人または参謁した人(6)を考察すると、雲棲祩宏・紫柏真可・憨山徳清・博山元来・聞谷広印・無尽伝燈など、すべて『五燈厳統』の法嗣否定の人が多い。いわば明末仏教の一つの特徴は、法嗣伝承に対する反対思潮の運動がその萌芽を示した点にあり、智旭はこの運動の最も有力な推進者であったと言うべきであろう。彼には「儒釈宗伝竊議」を著わす前に、すでに「法派称呼辯」(7)という論文がある。