ところで、智旭の思想に呼応する人は、滅多に見られない。智旭が入滅したのち、清代の二百年間に、彼の著作を再註釈したものは、日本では比較的多く見られたが(8)、中国の本土には、ただ清代の達黙と達林の二人があっただけで、彼らは智旭の『阿弥陀経要解』を研究し、『便蒙抄』三巻が作られたに過ぎない。明末から清末にわたる間に撰述された天台宗と禅宗の伝記書に、智旭の名は一切見えず、ただ彭希涑の『浄土聖賢録』巻五に、智旭の伝記を載せているのみである。そして清末の頃になって、天台宗に霊峰派という智旭系の法派説が現われ、智旭を中興の第三祖とするに至る(9)のであるが、智旭の法嗣伝承の反対思想を研究すれば、こうした宗派建立と宗祖列名のことは、決して彼の賛成する所ではないであろう。

なお、智旭の鋭い目で観察した当時の仏教教団は、彼の文献によれば、以上に述べた法統伝承の論争を含めて、およそ六点の流弊がある。後の五点を挙げれば、次の通りである。

僧徒の通病


これについて、以下の四つの文献を掲げたい。

まず、①「示定西」の法語(10)に、「当時の僧侶は、ただ宗師・法師・律師の美名を図るのみで、頭角を出す機会がなければ、たとえ頓超仏地のことがあってもとりやめる。彼らはもとより菩提大道の為に発心したのではないから、比丘戒を受けると、競々として鉢と錫杖で、律師の外貌を表わす。講座の経論を聞くと、孜々として消文釈義のみに従事する。禅を習うと、禅師の機鋒の真似を務めるのである。」と告訴している。

ついで、②「己己除夕白三宝文」(11)に、「この末法の時期に当たり、競って虚名にはせ向う。模範を知らずに、文字の法師や、狂妄禅客と共に、獅子身中の虫になり、形服の沙門や、羺羊の持律者と共に、魔軍の侵侮を呼び寄せるのである。」と訴えている。