もしくは徒らに極少数の公案を暗記するのみで、いたずらに歳月を空過するうちに、見と慢の煩悩心を起こして、あるいは暗証の禅病に墜落してしまうのである。」という。

講説者の病弊


これについては「示予正」並びに「亦明記」(18)の法語に、「末法時期になった当時の学者は、続仏慧命というスローガンをもって、如来の法門を支えると高調しているが、実に生死輪廻の苦痛を知らずに、単に学問知識を積み、見聞の範囲を広げて、登座揮払の法師の利養をこいねがうのみである。したがって、こういう僧侶には、学問が多ければ多いほど、害心もよりひどい。こんな学者の数が多ければ多いほど仏教の正法は益々衰えるのである。」と示唆されている。

持律者の病弊


これについては、次の三の文献、すなわち、

の中に紹介したと思う。これらの中に述ベられていることは、智旭によれば、「真実の持戒奉律は、単に三衣・一鉢・錫杖・皂祩等の形式標榜ではなく、戒律条文に対する開・遮・持・犯の認識を明らかにすることであり、性罪と遮罪を悉く犯さないようにすることである。けれども、当時の持律僧は、禅観と教学を茫然として知らずにいるだけでなく、比丘戒の三千威儀と八万細行のことさえも全く知らない。また戒相条目の開・遮・持・犯を知らないばかりでなく、増上威儀・増上浄行・増上波羅提木叉についても、一切無知である。ただ三衣・一鉢・錫杖・皂祩をもつだけで、まるで藁人形のような者である。」という。