明末中國佛教の研究 8

そ享保癸卯光謙叙皇都書林刻本『宗論』巻首一七頁の序説に、次のような説明をしている。

法語・書柬中、詩名公鉅卿、遵大師原稿、但書姓名、概不書尊稱。以末法、道則僧體日卑、争務乞靈人爵。俗則我相日重、終難覷破浮雲。(享保癸卯光謙叙皇都皇書林刻本『宗論』卷首十七頁)

これによって見ると、智旭は当時の政界中の人々と無関係ではない。しかし、彼が四十五歳に著した『闢邪集』にも、「名公大人と交せず、亦身を以て君に事うるを思わず。」と自ら告白している。確かに政界人物と互に交流したというような詩文や書簡は見えない。のみならず、政界人物の間に自らの名を出すことを惜しんでいる。たとえば、「復卓左車」の書簡に、

承謬擧於葉宗伯、謂宗説倶通、解行雙到。實增慚愧。…(中略)…山野病夫、不敢浪通其名、葉公處、以原柬繳。(宗論五ノ一巻一七ー一八頁\絶餘編三巻一三頁)

とあるのは、このことを裏づけるものであろう。清朝において、礼部尚書を大宗伯と俗称し、侍郎を宗伯または小宗伯と俗称するから、ここに述べられている葉宗伯という人は、おそらく清政府の侍郎になっていた公卿であろう。智旭は彼の書簡の邀請に対して、断固として固辞したばかりでなく、名前すら出さなかったのである。

なお、智旭の家系について見ると、彼の祖先は、もと河南省の汴梁〈開封)にいたが、始祖の時に江蘇省の呉県である木瀆鎮に移住した。彼の父は鍾岐仲、母は金大蓮といい二人の中年に智旭が生れた。彼の自伝である「八不道人伝」に見えるところでは、この鍾氏の家族は、ただ知識人の家庭というだけで、仕宦の関係にはないが、彼の『見聞録』に、彼の母舅である金赤城氏を紹介して、政府の官僚になったとしている。すなわち、

余母舅金赤城、守贑州。…(中略)。…未幾、陞兖東兵道。歸家病三四日而卒。