六 明末における僧侶の分類と智旭にみるその理想像

智旭における明末僧侶の分類法


明末仏教の様相といえば、非常に混乱した状態であったが、一往、禅・教・律の三類の僧侶に分かつことができよう。しかし、これをはっきりと三類の寺院または三類の僧侶に限界することには、色々と無理がある。蓋し、彼らすべての基盤は禅宗であって、たとえば明末の天台学者の百松真覚(一五三七ー一五八九)と象先真清(一五三七ー一五九三)の二人とも、禅宗の出身である。智旭自身も禅の道を経てから、天台教観また唯識論を研究し、結局、浄土の行に没頭しているわけである。さらに、律宗の学者の古心如馨(一五四一ー一六一五)は、明末の南山律の中興者であるが、彼は金陵棲霞寺において出家した禅僧である。また南京宝華山の三昧律主寂光(一五八〇ー一六四五)は、禅・教・律を兼修した雪浪洪恩(一五四五ー一六〇八)の弟子であり、永覚元賢(一五七八ー一六五七)は、曹洞宗系の無明慧経の法嗣である。元賢には戒律に関する著作『四分戒本約義』の四巻がある。かようなわけで、明末仏教界の人物と寺院を明確に区分することは難しい。しかし、分類できない中において、智旭は当時の僧侶を一層細かく分類しようと企てた。彼の三十四歳の作「礼大悲懺願文」に六類を区別し、三十五歳の作「前安居日供鬮文」に五類を、そして三十九歳の作「完梵網告文」に四類を、また「滅定業咒壇懺願文」に八類を区分している。今、この四つの分類の内容(1)を図示してみよう。

この表によれば、四分類ないし八分類の基準点は、やはり禅・教・律の三分類であるが、第四類の浄土念仏者は、実際には明末におけるすべての仏教者に共通した修行のありかたであった。

智旭における理想の禅者


しかしながら、智旭の眺めた明末の仏教界には、確かに禅・教・律の三分野がある。