四分類→坐禪者 習教者 持律者 念仏者
五分類→禪 教 律 淨土 習禪
六分類→禪思者 演教者 持律者 修淨業者 習瑜伽者 營福業者
八分類→禪者 學者 持律者 念仏者 瑜伽者 邪命者 雲遊者 務農者
そして彼の禅者に対する要求は非常に厳しい。もし禅者が教学を勉強しなければ、暗証無聞であることを指摘し、禅者が戒律に従わなければ、形服沙門であるという。また禅者が念仏しなければ、間違った道に行くと主張している。むしろ禅はなくても構わないと主張しているのであって。実は智旭の思う仏教の根本点は、浄土教の念仏法門に立脚した上の、教学の研究と戒律の保守である。禅・教・律の説は、単に当時禅宗の人々を導いて、教学・律儀に、また浄土の念仏に、誘入するためである。必ずしも伝統的中国の禅宗のことを重視したのではないと思う。智旭の考えとして、仏教徒ならば、浄土念仏は第一に重要であり、つぎは戒律の持守、そのつぎは教学の研修、最後に禅観を修すべきであるという。実は、念仏三昧があれば、禅観の内容もすべて含まれているのであって、中国の伝統的禅宗のことは無駄なこととなるであろう。そして、禅宗の人ならば、浄土念仏を修するうえに、また教学を知らなければならない。たとえば、彼の「示呉允平」の法語に、次のごとき論証を述べている。達磨以楞伽印心、五祖以金剛印心、安公讀楞嚴経悟道、普庵閱華嚴合論悟道。(宗論二ノ五巻十四頁)これは禅宗の祖師とする四人を列挙して、この四人のうちに、達磨大師と『楞伽経』、五祖弘忍と『金剛経』、安公と『楞嚴経』、普庵と『華嚴合論』のそれぞれは、もな経典教学を大事にしたことを明らかにしているので、当時のある禅者が、「教外別伝」と「不立文学」という理義によって、教学を否定するのに対して、智旭は「離経一字、