卽同魔説」(2)という説で・これに反論しているわけである。

智旭における理想の習教者


習教者に対する智旭の要求は、彼の「礼大悲懺願文」(3)に示されている。教観・戒律・禅思の三本の柱は、習教者の必須の条件である。さもないと、教学を幾ら研鑚しても、世間の学問にすぎない。習教者の目的は、知識の販売ではなく、自身の修証のため、他人の教化あるいは彼らを救うためである。そして、著作をすれば、性相両流の思想の矛盾を融通一貫するものでなければならないという。これによって見るに、智旭の考える習教者なる者は、実に禅・教・律の三類において、最も責任をもつべき、一番難しい立場であることはよくわかる。こういう基準の要求について、智旭は自身を習教者のモデルにしている気持が、推察できるであろう。なぜなら、自己の修証において、もし念仏をすれば、禅観・教学・戒律を知らなくてもよいが、もし他人を教化する善知識ということになれば、教観・戒律・禅思のことを知らなければ、教化の役にたたないからである。そして智旭自身は、すでにこのような資格をもつ者であった。

智旭における理想の持律者


持律者に対する智旭の要請は、前記の「持律者の病弊」の項に紹介したように、開・遮・持・犯のことをはっきり弁別することである。換言すれば、もし律儀を真剣に研修すれば、犯戒あるいは破戒に対して、その動機・場所・対象・分量などによって、罪の軽重または有無の裁定ができるはずである。すなわち、これは開・遮・持・犯の依準であるというのである。また、戒と律とは区別がある。持戒と持律の意味も異なっており、比丘の場合、二百五十戒の規則を堅守すれば、持戒比丘といい、もし一切の戒律に関する行儀細則および七衆戒の開・遮・持・犯をすべて明暁すれば、持律比丘あるいは律師というのであるが、持律者は持戒者よりも難しいという。ところが完全な持戒者となることも、また容易ではない。戒について、『大毘婆沙論』巻第百二十三、