明末中國佛教の研究 74

『大智度論』巻第二十二、『倶舎論』巻第十四等によれば、別解脱戒・静慮戒・無漏戒の三種がある。俗人の五戒・沙弥の十戒・比丘の二百五十戒・比丘尼の五百戒は、ただその中の別解脱戒の一種にすぎない。その次、色界の禅定の定境になると、静慮戒または定共戒といい、四向四果の無漏道より生ずる律儀は、無漏戒または道共戒という。したがって、智旭の要求基準は、本当の持律者なら、以上の三種戒を一切清浄無犯を守るペきはずである(4)とする。これは天台宗の六根清浄位に当たり、智旭自身さえもそれができない(5)のに、こうした要求をするのはかなり高きにすぎるであろう。 智旭の著作の中に見られる、当時の戒律を中心とした僧侶には、愍忠大慧(6)・大会・示権(7)・無静・樵雲真常(8)・見月読体(9)・茂林等(10)七人がある。実際はこの他に、古心如馨(一五四一ー一六一五)、三昧寂光(一五八〇ー一六五〇)、在犙弘賛(一六一一ー一六八一ー?)などの律僧があるのに、智旭の著作にはその名が見えていない。

智旭における理想の念仏者


さきに述べたように浄土教の念仏は、当時、すべての仏教者に共通しだ修行の方法である。これは北宋の永明延寿(九〇四ー九七五)の『神棲安養賦』に、「有禅有浄土、猶如戴角虎」ということが創唱されたことにより、当時殆んどの禅者が浄土教の念仏を行つたのは事実である。ことに、中国における唐末以降の仏教は、禅宗の基盤の上に築かれるので、『浄土聖賢録』に収録された禅者の事蹟は、もちろん多かったが、律学者・天台学者・華厳学者で、浄土の念仏を実践しないものは滅多になかった。

智旭の文献に現われた当時の仏教界は、ある者は、年少の時には宜しく教典を習い、年衰の時には念仏することの急要を主張しており(11)、また、ある者は、利根のものには参禅せしめ、愚鈍のものには念仏をさせるべきだと主張している(12)。しかし、智旭はこれらの見解に対して賛成しない。彼は禅・教・律の一致論に基づいて、禅・浄不二(13)の思想を宣揚した。特に彼は永明延寿の主張(14)を服膺しているので、浄土念仏の行を坐禅の行の上に位せしめた。