明末中國佛教の研究 79

彼の作品「八十八祖道影伝賛附三大師伝賛序」に、自ら次のように述べている。

余於三大師、宿有因縁。雲棲(祩宏)、曾侍巾瓶。海印(徳清)、親承記莂。而紫栢(真可)、入滅之歳、夢中委付嘱。(卍続一四七巻四九九頁D)

これによって知られるように、彼は祩宏と徳清との在俗弟子だと認めているが、真可に対しては弟子ではないという。けれども、真可入滅の年に、彼の夢中に付嘱を与えていたので、『紫栢尊者別集』四巻を編集したという。

智旭は銭謙益より年少であるが、銭謙益の『楞厳経疏解蒙鈔』巻首の一には、智旭について論述している(3)。この『解蒙鈔』の著作年代は、辛卯から丁酉までの七年の間(一六五一ー一六五七)であるから、智旭にはこれを見せてはいないであろう。しかし、智旭の晩年すなわち五十六歳(一六五四)の冬にみられた「寄銭牧斎」並びに「復銭牧齋」の二通の書簡(4)を見て考えると、彼と銭氏の間に、親しい友情があったことは確実である。

居士仏教の特色


明末に居士仏教はかなり盛行したので、智旭と書簡往復および法語授受を行ない、また問答を交換した居士は、およそ七十四人以上に及んでいる。そのうち、銭謙益を除いて、『居士伝』や『浄士聖賢録』に名が見えるのは、ただ唐宜之と程季清の二人だけである。

居士に影響を及ぼしたその他の人物について言えば、儒教の陽明学派の李卓吾・焦弱侯、仏教の雲棲祩宏・憨山徳清・紫栢真可・雲谷法会・高原明⑥・徧融真円・博山元来・聞谷広印・一雨通潤がある。この他祩宏の二伝古徳、真可の二伝密蔵等の人々の影響力があると思われる。その中、最も影響力を発揮したのは、雲棲祩宏である(5)。

明末の居士の間で流行した修行方法は、念仏を始め、血書経典の風も盛行した。彼らがよく講述する経典は、『金剛経』・『法華経』・『華厳経』・『唯識論』・『起信論』などであるが、ことに『楞厳経』は、