明末中國佛教の研究 97

ただ法派字号の陋習となった。

これに対して智旭の見解は、独創的である。彼は仏世の憍陳如・大迦葉・目犍連等は、みな俗名であるので、法名さえすでに仏世の律制ではなく、まして中国の宗派固守の法派字号は、主張すべき根拠が⿀ªいとするのである。明末の真可(一五四三ー一六〇三)と洪恩(一五四五ー一六〇八)の弟子は、すでに法派字号の陋習を廃除しており(1)、智旭自身もいずれの宗派にも属したくないことから、徒に法派字号を受けたり、あるいは与えることをしなかった。彼の四十三歳のときの資料に、自ら、

予自壬戌出家、於今十九年矣。学無常師、交無常友。(「贈純如兄」\宗論六ノ二巻一二頁)

と述べているように、彼は常に一人の師について学ぶことがなく、また彼と交わる友人も時によってかわってきたという。このような告白は、晩年の「自像賛」第三と第十七にもあらわれているが、師承がないので、あくまでも「八不」であるとするのである(2)。ところで、智旭は「師於古、不師於今」(3)とのベて、同時代人の中に彼の師になる資格をもつものは一人もいないので、やむをえず古人を師とし、また一人の古人を師とするのではなく、すべての優れた古人を師とするのであると主張している。ために彼は、

予惟無所不師、故無偏師。(「示蒼雲」\宗論二ノ五巻四頁)

と述べており、智旭の師とならない人はないが、ただ一人または少数の人を師とすることもせず、実に智旭の私淑する人物は多数にのぼるとするのである。

私淑した人に関する資料


智旭の文献に見られる師としての人々に関する資料は、次の五点を掲げることができる。