- 三十三歳時の資料
「毘尼事義集要縁起」に、次のように記されている。
思楽土可歸、羨蓮師而私淑。綱宗急辨、毎懐紫柏之風。護法忘身、願績匡山之派。(宗論六ノ一巻一―二頁)
すなわち、浄土においては蓮池大師雲棲祩宏に、禅宗においては紫相大師達観真可に、護持仏法の精神においては廬山の慧遠に、それぞれ心を傾けていたことが知られる。
- 四十二歳時の資料
これは彼の「贈純如兄」という短文に見えるのであるが、これから知られる智旭の参謁した人は、博山無異禅師大艤元来(一五七五ー一六三〇)、杭州真寂寺聞谷広印(一五六六ー一六三六)、幽渓尊者無尽伝燈(一五五四ー一六二七)等の三人である。また、智旭を仏法に引入した人は湛明師であり、剃度者ほ雪嶺師であり、沙弥戒の伝授者は戒宗師であり、菩薩戒を授けた人は古徳師であり、書簡の啓答における慰誘者は憨山徳清(一五四六ー一六二三)であると述ベている(4)。
以上、列挙した八人のうち伝記を考察できるのは、元来(5)・圧印(6)・徳清(7)の三人のみである。伝燈の伝記資料は非常に不完全であるが、僅かに『法華経持験記』巻下(8)、『浄土聖賢録』巻第五(9)に掲載されている。しかし、その生滅年代については、一切明記していない。僅かに安藤俊雄博士(一九〇九ー一九七四)が『天台思想史』の中において推定した年代一五五四ー一六二七年があるばかりである。これは、『法華経持験記』にいう「年七十五」を根拠として、また智旭の「供無尽師伯文」を参考として、伝燈の亡くなる年代を智旭の二十九歳(一六二七)の年と推測されたものである(10)。その他、湛明・雪嶺・戒宗・古徳等の伝記資料はない。
- 「自像賛」の資料
智旭の「自像賛」第ニ十四首(11)によれば、憨山徳清の法門担当、雪浪洪恩(21)の力掃葛藤、雲棲祩宏の盛徳謙光、無明慧経(13)の真参実悟、幽渓伝燈の中興台観、顓愚觀衡(14)(一五七九ー一六四六)の秋霜のような節操を慕い、さらに、願って紫柏真可の円妙なる宗と教を学ばんと語っているが、この文の中の「喚作北天目的老矻硉」という句によって、これは智旭の晩年の著作と推定することができる。
- 五十六歳時の資料
これは智旭の五十六歳の時に作成した「預祝乾明公六十寿序」の中に、次のように記されている。
予生也晩、弗及受先輩鉗錘、忝篤憨翁法屬。顧所私淑、則雲棲之戒、紫柏・六祖之禪、荊溪・智者之慧也。(宗論八ノ二巻一五頁)
智旭は出世年代がおくれ、先輩祖師に直接遭遇していないにもかかわらず、憨山徳清の法属となり、また雲棲祩宏の戒、六祖慧能と紫柏真可の禅、天台智顗と荊渓湛然の慧に私淑していた。これによって智旭は天台の私淑者であるのみならず、戒律と禅宗の私淑者でもあることが明らかであろう。
- 五十二歳時の資料
智旭が天台宗に私淑する態度については、彼の「復松渓法主」の書簡に、次のように陳述されている。
故私淑台宗、不敢冒認法派、誠恐著述偶有出入、反招山外背宗之誚。(宗論五ノ二巻一四頁)
智旭時代の代表的天台学者は、幽渓伝燈であるが、伝燈が天台宗一宗だけの立場を固執する態度に対して、智旭は賛同していない。それは智旭二十五歳の春、伝燈と一度面謁(15)しているにもかかわらず、天台宗の継承者とはならなかったことからも知られよう。しかも、智旭が天台の法系に属すれば、彼の諸宗融和の著述思想というものが、天台の範囲を逸出して、却って山外背宗者となる恐れがあるため、結局彼は天台系正統派に入らなかったのである。
智旭の師承関係
以上五つの文献に見られた智旭の私淑する人物、並びに師承に関する人物、そして、